『気』とは何か
こうして見ると、「気」とは、生命活動を支える根源的な力であり、「生命の素」ということができる。
気・心・体の統一
開祖・植芝盛平は、「合気」の究極の境地を次のように説く。すなわち、生命活動の根源力である「気」を絶妙に活用することによって、五体は活性化し、自分の意のままに動くようになる。「心身一如の境地である」と。
では、どうすれば「気」を絶妙に活用できるかというと、呼吸の微妙な変化を体得することが大切なのである。つまり「気」を呼吸力によって活性化しようというわけである。古代インド哲学において「気」を表わすプラーナという用語の本来の意味は「呼吸」なのである。その意味では、古来永遠の真理を開祖が悟得していたと言えるだろう。
そして開祖は、心と肉体と、それを結ぶ気の三つが完全に一致することによって、個人の心と肉体との調和、個人と全宇宙との調和、更には宇宙万有の活動との調和が達成されて、究極の悟道が得られることを知ったのである。これが合気道が理念とする気・心・体の統一なのである。
争わず闘わず
気・心・体の三位一体が実現して、宇宙そのものの存在となってしまえば、宇宙の運行に反する全ての動きは、たちまち見破れるわけであるし、この世に宇宙に勝てるものなどあるわけがない。つまり、宇宙そのものになった自分に敵対するものには負けるわけがないのである。戦わずして勝つという絶対不敗の境地である。
戦わずして勝つ極意を目指す以上、合気道では争うことも戦うことも必要ではない。人と技を競い合って、勝ったの負けたのと一喜一憂することに最初から関心がない。したがって合気道は、柔道や空手のように試合をしない。勝ったの負けたのという競技スポーツの道を選ばずに、あくまでも自分自身の心身を鍛錬する武道としての純粋な道を歩んでいるのである。
宇宙運行の動き
宇宙万有の活動に調和しようとする合気道の技法は、当然、宇宙万有の運行との調和を求める。合気道の技法の二大動作は「入り身」と「捌き(さばき)」である。「入り身」は一見直線的な動きだが、本来の姿としては螺旋(らせん)状に回転しながら直線的に動いている。「捌き」は、常にまるくまるく動く「円転の理」に基いている。
宇宙の運行を見ると、わが銀河系では、一千万年から二千万年前に中心で大爆発が起こり、以後現在まで数回の爆発を繰り返した。そして中心から二千億個もの星が、自転しながら超高速で飛び散りつつある。わが太陽もその一つである。太陽は銀河系中心核の周りを二億年に一回の周期で回っており、その太陽の周りを、地球を始め惑星が回っている。宇宙の運行の原理は、まさに「入り身」の螺旋状の直線運動と、「捌き」の円軌道運行なのである。合気道がいかに宇宙運行の理にかなっているかがわかろう。
調和を求める体技
合気道を精神修養法として捉える人々は多い。確かにストレス解消、ノイローゼ治療といった面で多くの実例を見ることができるが、合気道を単に精神修養の道として捉えるだけでは不十分である。合気道の気・心・体の統一の理念は、鍛錬を通じて、まず自分の体を宇宙の秩序と活動に調和させ、次いで自分の心を宇宙の秩序と活動に調和させ、最後に、心と体を一体化させる気をも宇宙の秩序と活動に調和させることである。
このように、宇宙の秩序と調和する静的な一体感を、心と体において実現させるのが、合気道の目的なのである。この意味で、合気道の技法は、調和のとれた肉体をつくる心技でもある。つまり合気道は、人間陶冶の道であり、人間練磨の求道なのである。単に道場における「行」にとどまらず、平常の「行」にすることが、合気道の唯一の道である。
人間錬磨の求道
合気道の動きは調和を重んじる。したがって、自然の摂理にかなった、無理のない流れとなっている。一つの動きから別の動きに移るのも実に滑らかである。切れ目のない流れるような動きの連続と言ってよい。無理のない自然の動きを鍛錬することによって、心身ともに調和のとれた爽快さを獲得できるのである。合気道は武道であるから、もちろん相手を一瞬にして制する峻厳さを持っているが、半面、相手の力と動きを自分の動きに導き入れる柔軟さをも持っている。柔軟であればあるほど技法は冴えてくる。このように、合気道の技法は、相手がどう攻撃してきても、その攻撃に即して変幻自在に対応できるところにも特質がある。一つの技から、無数の変化が生まれる。心にも体にも「幅の広さ」をもたらすと言われる所以である。